だと思う。
世の中に完璧は存在しない。完璧じゃないから物事には必ず指摘できる穴がある。そこを指摘し、攻めればいいだけ(”だけ”と言い切れるほど単純じゃないかも知れないけど)から否定するのは楽。
で、肯定的な言葉の方が否定的な言葉よりも発するのに、気構えというか、根拠というか、その意見を参考にして行動する人に対しての言葉を発したことによる責任というか、が大きくなる。
例えば、「まずい」と「うまい」。
「あそこのラーメンってどうよ?」
と聞かれ、ある人は「まずい」と答える。聞いてきた人は「まずいのか。じゃ、食べるのやめよう」となる。「怖い物見たさ」という言葉があるから、「まずいのか。どれだけまずいのか食べてみよう」もあるかも知れない。
食べるのをやめた場合、ラーメンを食べていないのだから、そのラーメンに対して評価をすることがなくなり、「まずい」と発したひとに対して、その後その発言を追求するようなことはなくなる。食べてみたらおいしいのかも知れないけど、食べていないので評価は発生しない。おいしい物を食べれなかったことによる損失というのはあるのかも知れないけど、そのことで「まずい」と発した人が、「まずい」を参考にした人から攻められることはまずない。
で、どれだけまずいのか食べてみた場合。食べてみたら意外とおいしかったとしたら、「まずい」との評価はおいしいと感じた人にとっては正解じゃないが、その「まずい」という評価がきっかけでおいしいと感じるラーメンにたどり着けたんだからあまり文句はない。そもそもおいしかったんだから。
もちろん食べてみてまずかった場合は「まずい」で正解だ。
それに対して、「おいしい」と答えた場合。聞いてきた人は「おいしいのか。じゃ、食べてみよう」となる。「おいしい」という言葉を発するという行為は間接的にそのラーメンを質問者に対してすすめるという行為になってしまう可能性が高いように感じる。
「あそこのラーメンってどうよ?」という問いは、「あそこのラーメン食べて見たいんだけど、誰か背中を押すか、止めるかしてくれないか?」ということである。「おいしい」という意見を聞いて、「おいしいのか。じゃ、食べるのやめよう」とはなかなかならない。
「あいつがおいしいと言っていた。どれだけおいしいんだろう?」 と期待して食べられてしまった場合、普通のおいしさじゃ満足できない可能性がある。「確かにまずくはないけど・・・ おまえが言うほどおいしくないぜ?」なんてことを言われたら・・・
味というのは個人の好みの問題もあるし、そもそも完璧なものなど存在しないのだから、そのラーメンにもどこかに穴がある。穴があるのに「おいしい」と発することで間接的に他人にそのラーメンを推薦してしまうことになるのだから、ちょっと考えてしまう。
つまり、否定的な言葉を参考にした人よりも、肯定的な意見を言葉にした人の方が、その意見が参考にした人にとって違った場合の被害(といったら大げさかもだけど)が大きいということだ。
否定的な意見は話1/10位に聞く。肯定的な話は1/2くらいに聞く。このくらいでちょうど良いと思っている。
・・・と、なんとなく書いてみたくなったので書いた。
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